私は、福井県坂井市丸岡町小黒29-1-1に住んでいる、松田正と申します。
4,50年前になりますが、私が子供の頃は、夜になると家族皆が小さな電球1個の部屋に集まり生活していました。父母と兄弟に囲まれ、それは楽しい生活でした。テレビもありませんでしたし、パソコンも、洗濯機もない時代でした。不幸だとか豊かでないとは感じませんでした。
2011年、東北地方を襲った巨大地震で、福島の原発が壊れ、放射能が拡散されたニュースは、私にとっても恐怖でした。福島県南相馬市で、「ガソリンがないので避難できない」という友人の知り合いからメールがあり、軽トラックにガソリンを積んで、南相馬へ持って行きました。私が南相馬についた頃、3月18日には、市民の皆さんはほとんどが避難したあとで、間に合いませんでした。ガソリンは、市の公用車用において帰りました。とても喜ばれたことは今でも忘れません。当時南相馬には市の職員か、警察官か、自衛隊の方しかいない状態でした。一部体に障害のある方は避難できないでいました。
その後、南相馬市の地震被害にあった家の後片付けなどのボランティアに出かけました。そんな中で、赤ちゃんを抱えるお母さんたちが、赤ちゃんのミルクの為の水に困っていることを聞き、水を南相馬や、伊達市、相馬市へ送りました。伊達市霊山町のご家庭に水を届けた時ですが、お母さんが子供を抱え、泣きながら車で出かけて行く場面に出くわしました。私が水を届けることで、近所から「放射能きちがい」と言われ、家族から水を受け取るのをやめるよう言われていたのでした。小さな子どもには少しでも。汚染されていないミルクを飲ませたいという、母親の気持ちも吹っ飛んでしまうような時だったのです。そして、その家族はもうバラバラになり壊れてしまいました。地震災害はあまり被害はなかった地域だったのですが、福島の原発事故で幸せだったと思われる家庭が、壊れていくさまを目の当たりに見て、原発事故の残虐性が改めて恐怖として感じました。本当にあってはならないことです。福島県やその周辺は、チェルノブイリであれば強制避難されているところでも、「たいしたことがない」などと避難どころか、避難解除になっています。これからどのような健康被害が出るか、またその健康被害は証明されないまま、受け入れなければならない状態になってしまいました。
私たちが住んでいる日本列島は、いつ地震が起きるかわからない所です。そんなところに多くの原子力発電所が建設されました。福島の事故が起きる以前は、「原発は絶対壊れない」でした。「もし壊れても、放射能を敷地外に出すことはありません」ということで、嫌だと思っても日本の国策として、日本のエネルギー政策として、推し進められてきました。福井県には狭い県ですが、廃炉が決まった発電所も含め15機もあります。
そして、原子力規制庁からの指示で、周辺は過酷事故の備えをするようになりました。原子力発電所から5km圏内では一時避難所の整備、安定ヨウソ剤の事前配備、30km圏内では、避難計画の策定、それに加え、被ばく医療の充実として病院の整備拡充が行われています。甲状腺がんの手術のできる医師を育てるのだそうです。原発で電気を作るためにです。余りにも馬鹿げています。規制庁は、規制基準に合格した発電所でも過酷事故は完全に排除できないとして、そしてそれ以上の安全に努めなければならないとしていますが、科学の発展や、人びとの生活を豊かにするためという理由はもう破綻しています。原子力<核>は日本では発電などの平和目的以外では利用できません。
発電という目的であれば、原子力発電でなくても発電方法がいっぱいあります。それも電気の安定供給や、電気のコスト、経済の安定発展においても、原子力をあえて利用しなければならない理由はありません。関西電力では原子力発電なしで、会社も黒字経営をしています。ここ2年間は原発の電気は作られていません。何も困ることはありません。
原子力発電は、福島の事故で見られているように、絶対に放射能を敷地外へ出してはならないのです。人々の豊かな生活の引換としては余りにも多くの大きな被害リスクがあるのです。福島は警告しています。「すべての原発を止めてください。」
裁判官に訴えます。私たちの社会は、もう司法にお願いするしかありません。原子力発電がなくても、豊かな幸せな社会が作れることを切に訴えます。冒頭に申し上げましたように、つつましい幸せを望んでいるだけなのです。重ねてお願いいたします。原発を止めてください。
以上